2020.09.18 [更新/お知らせ]
森岡道夫さんを偲んで

1987年の第2回東京国際映画祭から作品選定等に携わり、その後、第26回(2013)までの27年間に渡り、東京国際映画祭を支えていただいた森岡道夫さんが、2020年8月13日にお亡くなりになりました。88歳でした。
 
森岡道夫さんを偲んで

映画祭事務局退任パーティでのひとコマ

 
佐賀に生まれ、その後、市内には20館もの映画館があった岡山で、名作鑑賞と共に育ち、1953年東宝に入社。社のプロデューサーとして、『父ちゃんのポーが聞える』(71・石田勝心監督)、『華麗なる一族』(74・山本薩夫監督)、『吾輩は猫である』(75・市川 崑監督)、『ブルークリスマス』(78・岡本喜八監督)、『海峡』(82・森谷司郎監督)等の作品に携わられました。
48歳でフリーとなり、1982年には大林宣彦監督『転校生』を製作、『はるか、ノスタルジィ』(93)等、多くの大林作品に関わられました。
⇒第32回(2019)TIFFにて『野ゆき山ゆき海べゆき』上映時に森岡さんが急遽ゲスト登壇された際のレポートはコチラ
 
フリーでのプロデューサー業務と並行して、1986年から、翌87年に開催の第2回東京国際映画祭に参加、当時はヤングシネマ部門の作品選定を務めました。
第2回以降も作品選定に関わり、第26回まで東京国際映画祭を支えて下さいました。その森岡さんの映画祭史はロングインタビューとして記事にまとまっていますので、下記よりどうぞお読みください。
⇒映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!
 


 
【森岡さんを偲んで】
 
森岡さんは、初めてお会いした2002年の時から見た目はおじいさんでしたが、最後にお会いした2020年1月まで、寸分たりとも変わることがありませんでした。
歩くスピードは誰よりも早く、大いに飲み、たくさん食べるその姿に衰えが来ることは全く無く、驚異のおじいさんであり続けました。いつまでも側にいて下さるものと、疑ったことすらない故に、この度の訃報に接し、まさに呆然としています。
東京国際映画祭の上映作品を選定する作品部で、11年間ご一緒する光栄に浴しました。長年作品部を支えていらっしゃった森岡さんという後ろ盾を得て、僕はとても自由に仕事をすることが出来たのです。
常に穏やかで、孫の年齢のスタッフたちにも全く分け隔てなく接し、困ったことがあると必ず裏でサポートして下さいました。
新藤兼人監督の遺作となった『一枚のはがき』のワールドプレミア上映が、コンペティション部門において実現したのは奔走して下さった森岡さんのおかげですし、会期中に大物審査員の間でコトが起こりそうになると、さりげなく火消しに回って下さって、気が付けば何事もなかったような状態に戻っていたのは1度や2度ではありません。
かなり前の話ですが、あることをきっかけに僕が辞職を考えたことがあり、「あれはひどい、ならば僕も一緒に辞めよう」と森岡さんもおっしゃって、その日は遅くまで杯を重ねることになりました。
先輩として諭してくれることもあれば、このように僕のレベルまで下りてきて、全く対等に喜怒を共にして下さいました。大大先輩でありましたが、気持ちは映画祭を乗り切る同志でした。森岡さんも同じ気持ちでいて下さったと思います。
映画祭業務から退かれてからも、毎年映画祭会場に足を運んでコンペ作品を全て鑑賞されて、熱い感想を伝えて下さいました。面白かった! と森岡さんに言われることが、どれだけ励みになったことか。作品選定にまつわる苦労を、誰よりもご存じの森岡さんの言葉ほど、重いものはありませんでした。
そんな森岡さんが今年はいらっしゃらないということを、今は信じることができません。いつものようにひょいと現れ、簡単に感想をおっしゃり、「忙しい人を引き止めちゃだめだね」とさっと去っていくその姿を、もう見ることはできないのでしょうか。
いいえ、森岡さんが映画と映画祭にかけた情熱は、映画祭が続く限りなくなることはないと信じています。映画祭会場には森岡さんがいらっしゃると信じています。
森岡さん、本当に、本当に、ありがとうございました。どうか、ゆっくりとおやすみ下さい。そしてまた映画祭でお会いしましょう。
 
矢田部吉彦 東京国際映画祭シニア・プログラマー
 


 
事務局員一同、森岡道夫さんのご逝去を悼み、謹んで哀悼の意を表しますとともに、心からお悔やみを申し上げます。
東京国際映画祭事務局
 
森岡道夫さんを偲んで
第6回(1993)でヤングシネマのグランプリに輝いたニン・イン監督と。2013年、20年ぶりに再会した森岡さん

 
森岡道夫さんを偲んで

映画と共に歩んで来られた森岡道夫さん。お疲れ様でした。
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